『 これからの橋 』 ( 雪 )( 月 )( 花 ) 澤田ふじ子

 

これからの橋 月 (中公文庫)

 

 これからの橋 雪   澤田ふじ子 ( 中公文庫 ) ¥740  

 

◆ これからの橋 月   澤田ふじ子 ( 中公文庫 ) ¥700  

 

◆ これからの橋 花   澤田ふじ子 ( 中公文庫 ) ¥740  

 

評価…★★★☆☆

 

<作品紹介> 著作百冊記念刊行の自選短編集 『 これからの橋 』 を3分冊し、再編集し、文庫化したもの。

一応雪月花の順番になってはいるが、どれから読み始めても、1冊だけ取り上げて読んでも支障のない造りになっている。

なお、雪月花は松竹梅同様に単に順番付けとして使われているもので、特にそれらの主題別に編まれているわけではない。

また、収録作の全てが純粋に独立した短編というわけではなく、シリーズ物や連作短編の中の1作が収録されているという物も多く、そのため登場人物の説明などが自明のものとして全くなかったり、突然新しい主要人物が登場していたり等、読んでいて少々混乱することもあるが、筋書きに影響するようなものでもないので、そういうものとして心得て読めばよろしいかと思われる。

 

 

 

作品紹介にも書いたように、一般的な自選短編集に比べると独立した短編というものが非常に少なく、シリーズ物からの抽出が多いため、純粋に優れた短編を楽しむというよりは著者作品の案内書的な役割のものだと思って読んだ方が良いかもという気はしました。

何しろ作品数の多い著者であるので、そういう意味では非常に役には立つと思います。

私も本作品集を読んでいて、このシリーズをもうちょっと読んでみたいなという気にさせられるものが幾つかありましたし。

もちろん独立した短編としても十分に楽しめますが、説明のない登場人物が突然出てきて、あれ、読み飛ばしたかなと思って前頁を何度も繰るとか、それにも慣れて、あ、また突然知らない人が出てきてるよ、誰、これとか思って読んでいると、その人が突然 「 わん 」 と一声吠えたりして驚かされる( 収録作中では、結局明らかにはされていませんが犬のようです^^; )とかいうのがあると、やはりちょっと作品本来の味わいを損ねますからね(^_^;)

 

私は何となく食わず嫌いで著者の作品を長らく読まずにきていて、初めてきちんと読んだのが『 高瀬川女船歌 』シリーズ4作なんですね。

レビューは1作しか上げていませんがf^_^;)

その時に感じた何だか登場人物に感情移入できないという印象は、本作品集を読んで若干払拭されました。どうもあのシリーズが特別その傾向が強いみたいです。

まぁ、基本的に今まで読んできた他の時代小説に比べると登場人物が生々しさに欠けるというところはあるのですが、作品によっては、おっとこんな風に書くんだとか、こんなこと書いちゃうんだっていうのもあって、それはちょっと収穫でしたね。

それと 『 高瀬川女船歌 』 シリーズでは何となく違和感があった関西弁があまり気にならなくなってきたのと、馴染みのない美濃藩のあれこれとかが読んでいるうちに興味深くなってきたのも個人的には収穫かな。 あと、オチのつけ方がちょっと変わってる作品があるのも面白かったです。

 

先ほど来申し上げているように、著者の作品は何だか生々しさに欠けるところがあって、まぁ、そもそも大抵みんないい人なんですね。だから、話自体が後味悪く終わることがあんまりない。

そんな感じなので、単にめでたしめでたしで終わってもさほどの感慨がないのですが、本作品集の中で幾つか、善良な人々が悪いこと ( といっても人様に迷惑をかけるようなことではない ) をして幸福を手に入れることを示唆して終わっているのがあって、これにはちょっと驚きましたね。

お、こんなのありなんだ!と。これは著者作品に限らず今までにないパターンだと思います。

通常だと、悩みながらも悪事はできないと諦めて苦労を選び、その中での幸福を感じるとか、思い切って罪を犯して全てがうまくいくように思えたが、やっぱり悪いことはできないもので…みたいなラストになるものなんですが、それらの作品はうまくいったということところまでは描いていないんですが、どう読んでも悪く転がる感じはないんですよね。そうか、良かったなと思いつつも、それはそれで何だか割り切れない感じがあるのが人の心の不思議なところでございましょうか(^_^;) 

多分今までにないラストに戸惑っているだけだとは思うけどね。

私は基本的に割り切れない、やり切れない話とか、善良な人々が理不尽な目に遭う話って嫌いなので。

 

※以下ネタバレ有り※

 

ちなみに、その驚きのラストの作品は 『 雁の絵 』 と 『 寒夜の月 』 です。

ほかにもあるかもしれないけど、すぐ思い出すのがこの2つ。

 

前者は本人の努力と才能があって、かつ、誰にも迷惑がかからない手段で金を作るので、むしろいい話とも言えます。

ちなみに、 和紙に描かれた日本画には、名画の本絵を薄く剥いで2枚の本物を作るという手法があり、それを用いて金を作るという話なんですね。

もちろん詐欺行為であるし、名画を傷つけるわけでもありますから、バレたら罪には問われますが、できた作品は厳密には本物じゃないが贋作でもないというものですし、色と紙が薄くなっているだけで本物変わりないと主張できなくもないし、そもそも誰も気付かなければそのままというものですので、罪は非常に軽いと思いませんか?

 

後者は、善良な坊主が、彼の窮地を知った悪坊主だけど人間的にはいいヤツである同僚坊主に分け前をもらえるという話で、誰も何の努力もしてないんだが、まぁ幸せになる人しかいないんだからいんじゃね?みたいな話(^_^;)

 

でも、著者の作品ってほんとに淡々としているというか、何か薄紙1枚隔てたような独特な感じがあります。

悪とか暴力とか性とか、世の中の不条理とかやり切れなさとかいうのも書かれてはいるんですが、そんなに感情に訴えかけてこない感じがあるんです。

だから、登場人物にもほとんど感情移入できない。ただ、それが作品の内容が薄いとか嘘くさいとかいうわけでは決してないところがまた不思議。

例えば、やたら美男美女や善男善女が登場する嘘くささはあれども、人間の生活や心情の細部のリアリズムの生なましさが迫る北原亞以子の話の数多くに漂うどうしようもないやり切れなさとか、おじさんのお伽噺という印象が強い作品も多いけど、人間関係の妙や性描写が生々しい池波正太郎とか、その両者を持ち合わせてる藤沢周平乙川優三郎とかの感情を揺さぶる作品群とは全く違うんですよね。

彼らの作品は胸に迫り過ぎて、気分が落ちてるときには読めなかったりすることも多いです。 もしかしたら、ある意味では、このくらい隔てた感じがするのが正しい時代小説なのかしらって思ってみたりして。

いや、現代に生きている他人の心情どころか自分の心情すらもよくわからないんだから、400年も500年も前に生きてる人々の心情なんて、絵空事のようなものなのがほんとなのかなぁ…なんて、ふと思っただけです。

 

やっぱり、あれらの作品は時代に即していながらも、人物の心情がやはり現代的なのかなぁと今までに思ってみたりしないでもなかったしね。

まぁ、この辺も深く掘り下げるのは面倒なのでやめときますが。

 

そういう意味では、本作品中の中では 『 悲の枕 ─── 狩野屋左女 』 と 『 辛い関 』 は、おお、この人がこんなの書くんだ!!って瞠目の厭~な作品でしたね。

後味悪いなんてもんじゃなく全編通して、これ厭な話なのでございます(T_T)

ほんと何もそこまでしなくてもって感じ。

 

話としては、死んでから出家しても何の侘びにもなんねぇよ、ボケ役人が! つーか、軽率にも彼女を無意味に殺した今となってはお前が死んだとしても何にもならねぇんだよ、カス! っていう感想しか持てない後者よりも、己の意に適う遺作を遺すことができ、しかも、それをもって自分を陥れた犯人に己の罪の深さを知らしめることができただけ前者の方がずっとマシだとは思うのですが、個人的に清らかな令嬢が大人数に陵辱されるって設定が物凄く厭です(T_T)

当時としては、その場で死を選ぶのが当たり前であるような恥辱と恐怖にさらされながらも、踏みとどまり絵を描き続け、畢生の作品をものにした屋左女の強さと絵にかける気持ち等々の素晴らしさが際立ちはするのですが、やっぱりそこまでしなくてもって思ってしまいます。

 

あと、狐だの地獄だの陰陽師 ( これはシリーズがあるそうですが )だのが出てくる怪異物みたいな作品もあって、この辺はちょっと毛色が違っていてまた面白いですね。

 

とりとめなく書き連ねてきましたが、何しろ作品数が多い上にこちとらの知識量が少ないもので、とりあえず、この辺で切り上げさせて頂ますm(_ _)m

 

気が向けばちゃんと書き直すかも……って、このブログ上で一体何十回このあてにならない台詞を書いたことでしょう(^_^;)

 

( 4月下旬~5月4日にかけて読了 )

 

 

 

rakuinkyo.hatenablog.jp