『 悪魔と天使 』 ( 2006・米 )

悪魔と天使  

◆ 悪魔と天使 ( 2006年・アメリカ)

 監督:ロビー・ヘンソン

 出演:エドワード・ファーロング、ケリー・リンチ、マーティン・ドノヴァン、ランディ・トラヴィス

 評価…★★★☆☆

( あらすじ )

田舎町の牧師・トラビスは、ある日突然妻が行方不明になり、惨殺死体となって発見され、容疑者も犯人も見つからないという目にあってから神の存在が信じられなくなった。彼は牧師の職を辞し、何をするでもなく酒を飲んで過ごすというような自堕落な生活を3年の間送っていた。

そんな彼の唯一の心の支えは妻の生前から飼っていた犬だったが、その愛犬マックスも死病に冒されていることがわかる。絶望的な思いで日々を過ごすトラビスだが、そんな折に町で奇跡が起こっているという噂を耳にする。教会のキリスト像の流す涙に触れたとたん障害のあった足が動くようになった、大事故に遭遇したが奇跡的に助かった青年が御使いらしき人々がいてメッセージを残していったという等々…。

トラビスの元同僚だった牧師はその奇跡に懐疑的で彼に相談を持ちかけてきたのだ。トラビスは協力を拒否するが、彼の元にもその奇跡と御使いらしきものが訪れる。息を引き取ったのを確認して埋葬したはずの愛犬マックスが蘇ってきたのだ。さらに、町の商店で足が不自由で車椅子を使っていた店員が、御使いに遭遇して直後に立ち上がるのを目撃する。

やがて、それらの奇跡の場に立ち会っている人物のひとりの身元がわかり、事情を確認するためそのブランドンという青年のもとをトラビス、保安官、そして記者のナンシーが訪れる。一見、ごくふつうの青年ブランドンは最近この町にきたはずなのに、住民の全てを知っているかのように語り、それぞれが秘密にしているようなことまでも知っていることをほのめかす。更にその場で、また病気を治す等の奇跡を起こしてみせる。そして、彼は神の教えを語っているのだと言い、彼と彼を信じる人々が開いているという集会に誘う。

奇跡を目の当たりにしながらも、何かひっかかりを感じるトラビスはその集会に参加してみるが、そこはもう狂信者の集まりのようになっていた。傷や病気を治してもらったり、宗教的法悦を味わったりした人々はもうブランドンに夢中で彼の言いなりだし、それらを目の当たりにした人々も当然疑うことなく彼を崇めている。

しかし、そこに正しくないものを感じ取ったトラビスと数人はブランドンの周囲を探り始め、やがて、思いがけない事実が明らかになってくる。


異教徒の身としてはどこまで正しく解釈できているかはわからないのですが、それはともかく、これ、フツーになかなか良くできた映画だと思うんですよ。テーマも深いし、役者陣もなかなか良いし、ストーリーもテンポも良い。 だが、しかし、何故にこんなモロパクリ邦題をつけちゃうのかなぁ(-"-;)

私は本家を見てないのでわかりませんがパッケージとかもそっくりらしいですね。ついでに言うと、パッケージとかのあらすじとかも実際とかなり違うと思う。カルト教団なんか出てこねぇっつーの。「 キリスト教を根底から覆しかねない恐怖! 」もないなぁ。ちなみに私はまんまとその両方の煽りに惹かれて借りたんですけどf^_^;)

でも、そういうのは別に気にならないくらい面白かったですよ。まあ、よくあることなんで気にしてないってのもあるけど(笑)

ちなみに原題は 『 THE VISITATION 』。まぁ、たしかにこれを直訳 (『 訪問 』 とか ) したら地味過ぎるとは思うが。

※以下ネタバレ有り※

邦題でははっきりネタ割っちゃってるし、そうでなくても、キリスト教にしろ何にしろ奇跡を起こしているのが神でなければ対立存在=悪魔だろうくらいのことは異教徒であってもわかることなので、オチは見えてるんですが、そこまでに持っていくのがなかなか上手いのと、悪魔と契約するに至ったブランドン ( という名前ではほんとはないのだが ) の物語、そして、何故彼がトラビスに執着するのかという話などの設定がよくできてるのですね。

突っ込みどころはないわけではないけど ( 悪魔との契約内容がよくわからない。3年に1人殺せばいいらしいけど、それは最初に助けてくれた時の代償? その後、奇跡起こしたりしてるけど、あれはいつもできるわけじゃないんだよね?いつもできるんだったら、それこそ大カルト教団作ればいいもんね。で、それくらいの能力を与えたのに3年に1人じゃ安いよね。等々…… ) 気にはならないレベル。

気になるとしたら、意味ありげに出てきたカイル牧師が単に非常に徳の高い牧師であったこととか、いくら人を殺したとはいえ、元はかわいそうな少年だったブランドンに何の救済もないのかとかいう点かな。ブランドンはせいぜい3人しか殺してないし、そういう契約をするはめになったのも自己の生命が危機に瀕してたからでしょ。で、それを牧師でありながら救ってあげられなかった己を何とも思わんのか、トラビス。妻を惨殺された恨みはわかるけど、全てを許すのがキリスト教なんじゃねぇの? それができないのなら、やはり君の信仰心は本物ではないだろうよ。あと、そんな風に妻に執着しながらも、結局はブランドンに指摘されてた通り新しい女ができたから元気になったんじゃん、みたいなね。

私は無神論者と言い切るポリシーもない程度の無信仰者なので、恨みも憎しみもずっと抱えてますから、そういう執着を非難する気は全くないんだけど、宗教者としてはどうなのと思うよね。

この作品に限らず、欧米の映画、小説等では信仰と現実の狭間で悩むって設定はかなり多い( 『 リーピング 』 のヒロインもそうだよね )けど、やっぱり 「 神を信じていれば幸せでいられる 」というのと 「 どんな苦難も神の与え給うたもので、それを乗り切ることによって、より良くなれる 」 というのを両立させるのは甚だ困難だよね。

「 神を信じていれば救われる 」 というのは嘘じゃないとは思うよ。強い信仰心があれば、どんなひどい目にあっても、「 これは神が私を試しておられるのだわ 」 とか思ってれば乗り越えられるかもしれないからね。でも、乗り越えた先にそれに見合うものがないとか、自分より悪しき振る舞いをしている人や信仰心のない人などが幸せに暮らしているのを見たりとかすると、やはり普通は心が折れるよね。

信仰は見返りを期待するものではないという考えは一応ありつつも、苦難を与える存在でしかない神に何故心を捧げねばならんのかと思うもんなぁ。それに、悪しきものが栄えていくとか明らかに教えと矛盾することが現実世界には存在するからね。特にキリスト教は結構戒律が厳しいだけに納得いたしかねるという気になるよね。

まあ、おそらく大抵のキリスト教信者は都合のいいときにだけ心の支えにするって形で信仰を続けているのではないかと思うけど。

日本人の大半が何かあったときに物凄く漠然と「 神様! 」と思うのと似ているようだけど、対象とする神が明確であるかどうかでその力は大いに違ってくるんじゃないかと思う。その辺が精神性の違いにつながってくるのかねぇ。

( 1月鑑賞分 )