『桜花を見た』 宇江佐 真理

桜花を見た 宇江佐 真理 (文春文庫)¥600  評価…★★★☆☆ <あらすじ> 太物問屋の手代である英助には誰にも言えないある望みがあった。それは実の父親に会うことだ。臨終の床で母が教えてくれた父の名は遠山左衛門尉景元、そう、あの有名な北町奉行遠山金四郎だというのだ。現在の商人としての生活に不満のない英助は、雲の上の存在である父に子として認められたいという思いはありながらも、強いて行動に移せずにいた。ところがひょんなことから事態は展開していく。(表題作) 表題作ほか、『別れ雲』(筆屋の出戻り娘・れんと年下だが高名な絵師・歌川国直との切ない恋物語)、 『酔いもせず』(自らも絵師であり、時には北斎の代筆までした北斎の娘・お栄。半生を父と絵に捧げた彼女の知られざる結婚生活や女として、絵師としての心情に迫る)、 『夷酋列像』(松前応挙と呼ばれ、波響という雅号とその画業で高名な蠣崎将監広年の、優れた芸術家でありながら同時に優れた官吏でもあった人生を描く)、 『シクシピリカ』(農民の出で一旦は煙草屋に奉公したが、周囲の後押しと本人の志の強さで、ついには幕府の能吏にまでなる元吉こと最上徳内。しかし…) の全5篇を収録。
著者には珍しく、全作が実在の人物に材をとった作品集。北海道出身・在住の著者らしく、それほど知られていない蝦夷関連の人物に材をとっている( 『夷酋列像』と『シクシピリカ』。この二作は時代背景も同じで登場人物も一部重なっている)のが興味深く面白かった。やっぱり、北海道や沖縄って、その地に住んでない人間には伺い知ることのできないものがありますよね。 ※以下ネタバレ有り※ 他3作はあんまり感心しないかなぁ。表題作は、何か全体的に嘘っぽい感じがするのね。英助とお久美の仲とか、感動の父子対面シーンとか。特にムリがある気がするのは砂絵師のくだりだな。これはない方がむしろいいんじゃなかろうか。八方丸く収まってめでたしめでたしではあるんですが何かすっきりしません。 『別れ雲』は結構いい話なんですが、国直以外の人物の心情がどうもピンとこない。いや、わからないではないけど、納得しかねるというべきか。何故、悲恋にならなければいけないんだって思うのよね。 で、問題は『酔いもせず』。面白いし、いい話なんだけど、もろに杉浦日向子さんの『百日紅』なんだよね。ちゃんと参考書目として挙げてはいるし、あとがきでも「触発されて書いた」と名言してはいるのだけど、やっぱり私は何かダメだ。あれは杉浦さんの!みたいな気がしちゃうんだよなぁ…。『百日紅』にはないお栄の結婚生活の描写とか英泉との関係とか新しい視点はあって、その部分は面白いんだけどね。 しかし、宇江佐さんは他の作品にも杉浦さんの作品と全く同じヤツがある(『おちゃっぴい』。これも原典は『百日紅』だが参考書目としてあげられてない)し、これに収録されてる『夷酋列像』の中にも杉浦作品から採ったとしか思えないセリフ( 「龍にはこつがございまする。架空の生き物は脳裏に思い浮かべ、空に消える前に捕まえて一気呵成に描くのでござる」。百日紅』で国直がお栄に言ったセリフとほぼ同じだよね。)があったりするし、そういうのって何だかなぁ…。宇江佐さんも杉浦さんも好きだし、本来は本歌取り的なことをとやかく言う気はないんだけど、宇江佐さんのやり方はあんまり感心しないんだな。 そもそも、漫画が活字に原典とったりインスパイアされてるのはさほど気にならないんだけど、逆は凄くひっかかるんですよね。だって、漫画は作画という部分でその作家さんならではのオリジナリティを出してるし苦労もしてる(はず)だけど、逆の場合はほとんど何もないでしょう? 漫画は小説では描いてない些細なことも絵にしないといけないけど、逆の場合だとストーリーから情景描写から着物の模様まで、全て漫画からひっぱれるからね。日本の漫画の表現力ってほんとに素晴らしいと思います。そして、そうでありながらも、何となく小説より一段下の文化のように見られがちなところが非常に腹立たしい。 なので、その素晴らしさを漫画を読まない人達に理解してもらうためにも、漫画から材をとって小説を書く場合はきっちり参考文献として挙げて、できれば「どのように使わせてもらった」とかの解説もつけてほしいものですね。 ちなみに『百日紅』の中でも、これ百鬼園先生の随筆から採ってるなぁというシーンがあるのだが、あれなんかは逆にくすりとさせられるのよね。やっぱり同時代だとちょっと嫌な感じがするのかなぁ。まぁ、あれは余り意味のないシーンだからいいというのもあるけど^^;