『うるさい日本の私』 中島 義道

(2005年9月読了分。感想などは当時のもの) うるさい日本の私 中島 義道 (新潮文庫)¥460  評価…★★★★☆ <内容紹介> 公共交通機関の車内や駅構内、デパート、銀行、商店街、海辺など人の集まる場所はもちろんのこと、自宅にいても竿竹、焼芋等の物売りの車に公共機関の広報車、街宣車自治体等の公共放送…と日本は至るところにスピーカー音があふれている。そしてそのほとんどは暴力的なまでの音量でその内容は空疎だ。 自称「スピーカー音恐怖症」の著者は我が身を守るため、それらの音の発生源である組織や個人にできる限り抗議し改善を求める。 そうして無数の闘いを繰り返した結果見えてきたものは…。哲学者であり大学教授でもある著者の音漬け社会との戦闘の記録とそういう社会が出来上がったことについての考察をまとめた書。
これも結構長いこと探してた本。都会の某大型書店での収穫です(^^;) 著者との出会いは『偏食的生き方のすすめ』。食べ物の好き嫌いはほとんどないのに、大抵の人が好むバナナを幼少時より「果物のくせに外側がもしゃもしゃしてて、しかも食感もぐちゃっとしてジューシーでない」という理由で好まないという人間である私としては、「魚は飛んではいけないので、トビウオは食べられない」という帯の惹句を見過ごすことができず、つい購入してしまったのです。 そして、一読し、著者の偏食の内容もさることながらその「難儀な」としか言いようのない生き方に非常に興味を持ちました。『うるさい~』が話題になった当時はそういうのに余り興味がなく(というか流行り物がキライで)未読だったのですが、順番的にはこれで良かったような気もします。 さて、本書についてですが、読後の感想はやっぱり「難儀なお人やなぁ」でしたね。作中でご自分をドン・キホーテに擬えておられるけど、あんなかわいげもないし共感を得られないどころか大抵の場合反感を持たれるというところで大きく違うように思います。ご本人が自分とそれをとりまく状況をかなり客観視しておられて、それでも尚やるのだやらねばならないのだと孤軍奮闘されているところが実に哀れと苦笑を誘います。 しかし、私は今まで自分のことを音に対する許容度が低い方なので著者寄りではあるかなぁと思っていましたが、本書を読む限りそうでもないことがわかりました。どうも、私は、「私人が発する「音」にはきわめて不寛容」という、「この国の善良な市民」の特徴をもっているに過ぎないらしい。確かに、ある種の公的な音も不快に思うことが多いが我慢できないほどではないし実は物によっては甘受しているものある。 例えば、 方向感覚に自信がないので公共交通機関やその駅の案内アナウンスは結構有り難く思ってるし、店内の有線放送やオリジナル番組は結構楽しんでるし役に立つと思う。案内放送も時と場合によっては有効だと思う(世の中には文字が全く目に入らない種類の人が確実に存在していると思うので)。でも、大きい音は確実に嫌いです。 と、まあ、そんな感じで所詮音漬け社会で生まれ育った日本人に過ぎないみたいです。実際、著者の主張も理解できるけど著者の敵たちの言うこともある程度理解できる。だってしょうがないよねぇと思っちゃう。そして、何より私が著者に心から賛同することをし難くしているのは「ヨーロッパではこうではない」という言葉ですね。そりゃヨーロッパはこうでないだろうけど日本はこうなんだよ、仕方ないでしょ違う民族なんだから郷に入れば郷に従えよ…って思います。多分、著者から抗議を受けた多くの人もそう思ったことでしょう。他国と比較してわが国の非難をするのはどうも頂けません。 結局、著者は音漬け社会を作るに至ったその民族性にまでメスを入れて、「語る」ことを排除する日本の文化を批判しているのだが、それもお説ごもっともですがそんなこと言われたってねぇ…という感じが否めない。いや、積極的に賛同したい部分もあるんだけどね。変な「優しさ」社会は気持ち悪いし、吉野弘の『夕焼け』という詩は私も中学か高校の教科書で読んで「何言ってんだこいつ」と思ったし、多数派の傲慢さ鈍感さは告発すべきだし…等々。でも、やっぱりあなたの思うような社会にはできないと思う ちなみに、最終章の最後『「日本古来」の美徳を一度全部捨ててみたらどうだろうか?』に至っては確実にヤケになっていると思われる『「察する」美学から「語る」美学への変形法則』が掲げられている。 賛同できるも条項もかなりあるがやっぱり日本でそれじゃ生きていけないよねという内容。結びが冗談ぽいのでわざと過激に書いているのだろうことはわかるけど、でもかなり本気なんだろうなぁ、ほんとに難儀な人だとため息をつかずにはいられませんでした。 面白いので抜粋したいんだけど12項目もあるし、もう夜が明けてしまったので断念。いずれ元気があったら付け加えるかも。