『 何にもない 』 (2003・加)

ナッシング (2003年・カナダ)

 監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ/出演:デビッド・ヒューレット、アンドリュー・ミラー

 評価…★★☆☆☆

<作品紹介>

デイヴとアンドリューは幼い頃からの友人で、アンドリューの両親の死後はルームメイトでもある。デイヴは自己中心的で協調性がなく、能力の割に自己評価が高いという性格で、アンドリューは極度の心配性でイジメられっ子だったのが、両親の死後は完全な引きこもりになったという問題のあるコンビだが、他に全く友達のいないふたりは協力しあって、何とかうまくやっていた。ところが、そんな生活が突然破綻し始める。それも恐ろしい勢いで。

最初のきっかけはデイヴだった。ガールフレンドができて有頂天になったデイヴが彼女と暮らすと言い出したのだ。デイヴに頼り切って、文字通り家から一歩も出ずに暮らしていたアンドリューにとって、それは死刑宣告にも等しい。しかし、必死で説得するアンドリューを振り払って、デイヴは意気揚々と出勤していった。ところが、出社したデイヴは身に覚えなのない横領容疑で、いきなりクビになってしまい、ガールフレンドにも冷たくあしらわれる。

一方のアンドリューは、ひとりで生活できるものかと恐るおそるゴミ出しにチャレンジするうちに、風でドアが閉まった弾みで鍵までかかってしまい、家から閉め出されるはめに。パニックに陥るアンドリューをたまたま訪れたガールスカウトの少女が救ってくれた。窓から家に入りドアを開けてくれたのだ。少女に感謝するアンドリューだが、パニックから逃れるとまた別のパニックが襲ってきた。そう、彼は他人と話せない引きこもりなのだ。事情を説明するが、少女はすっかり世話役気取りで聞き入れようとしない。思わず怒鳴りつけて家から追い出したアンドリューに怒った少女は、帰宅して彼に力ずくでキスされたと嘘をつく。もちろん母親は警察に駆け込む。

そろって身に覚えのない犯罪者となってしまったふたりは、大急ぎで家を売って逃亡しようとするが、そこに何故か役人がやって来る。なんと、この家は違法建築だから今日の午後3時には取り壊すというのだ。そして、午後2時49分、家の前には取り壊し業者と、アンドリューを訴えた親子と警察、デイヴを追う警察がやってきて、それぞれが実力行使に及び始める。声や騒音、家に加えられる破壊で、家の内外は大変な騒ぎだ。

何故自分たちばかりがこんな目に!? 突然、しかも、まとめて襲い掛かってきた理不尽な災難に、ふたりは思わず叫んだ。 「 ほうっといてくれ!! 」その途端、全ての騒ぎが治まった。異様なまでの静けさに不審に思ったふたりが窓から外を覗くと、そこには何もなかった。そう、何も。さっきまでの人だかりだけでなく、建物も地面も空も何ひとつ。


CUBE 』 『 カンパニー・マン 』 のヴィンチェンゾ・ナタリ監督作品だと言うので、深く考えずに借りたら、意外にもサスペンスとかスリラーではないんですね(@_@;)

いや、ある意味サスペンスなんですけど、全体的な雰囲気はコメディ。最初の方は子供の落書き調のアニメーションも多く使われて、映像もかなりコミカル。でも、スタイリッシュなのは変わらず。今までみたいに無機質な感じではないですけどね。

で、うーん、ちょっと言葉に詰まるなぁ…(*_*)   嫌いではないんですけど、面白いとは言い難い。好きな人は凄く好きそうだけど、ダメな人は全くダメって感じの作品なんですよね。

ヤマは一応あるけど、オチ無し、イミ無しって感じで。( まぁ、フィクションの意味というのは、受け手それぞれが見出すものなのだと思いますし、この作品も見方によっては色々な解釈ができますけどね^^; )

※以下ネタバレ有り※

本作の場合、自分たちがいる家以外の世界の何もかもが無くなってしまったというのは、本当に文字通り何も存在しなくなっていて風景すらないんですね。ただ、空気、空間、重力等はあるらしく、家の外の真っ白な部分に降り立って歩くことはできるし、そこに物を置くこともできる。

その地面にあたる部分は弾力があって、勢いをつけて物を落とすと弾むような素材(というか何と言うか…)らしいのですが、それを作中人物が 「 トーフの上を歩いたら、こんな感じだろう 」 と言っていたのは、豆腐を知る者には判断を誤らせるし、豆腐を知らない者には豆腐のイメージを正しく伝えてないから、やめて欲しいなぁと思いました。 「 味も素っ気もないところも似ている 」と言ってた以上、実物に接したことはあるんだろうけど。島豆腐の上なら歩けるかもしれないけど、ふつうの豆腐だとめり込むと思うがなぁ。あ、ゴマ豆腐の上も歩けそうだな。これは厳密には豆腐ではないけど。 あ、凄くどうでもいい話でしたm(_ _)m

そういう状況なので、イメージ的には周りが消滅したというより、彼らが家ごと異次元に移動したと考えた方が納得できるのですが、ただ不思議なことにアニメやドラマを流すケーブルテレビは視聴できて、電気も来ているんですねぇ。つまり、外部とは通信できないけど生活には不自由ないという状況。( そういえば、作中ではインターネットには言及されてなかったけど、設定からするとこれは不通なんでしょうね )

とは言っても生きてるからには食べないとならないし、とにかく異常な事態に焦った彼らは、しばらくは周囲を探したりしてジタバタします。しかし、状況は変わらず、このまま餓死するのを待つかと思った時に、彼らはふと空腹感を感じなくなっているのに気付きます。どうやら、彼らは自分たちが不快だと思うものを消すことができる能力を身につけたらしいのです。

その力は全てを消すことができます。人でも物でも事象でも感情でも記憶でも。しかし、消したものを取り消したり、何かを出すことはできないという結構不便な能力なのですが、それに気付いた彼らは、能天気にも 「 俺たちは神になったんだ! 」 と喜び、好き勝手な生活をします。…と言っても、ほとんどは部屋にこもって日がな一日ゲームをするだけで、あとは本を読んだり、楽器を演奏したりする程度なんですけどね。人によっては、そんな生活は牢獄に等しいと思いますが、周囲となじめなかった彼らにとって、その生活は楽園だったのです。でも、空腹感を消しても栄養を摂取しないと身体が機能しなくなると思うんだけどなぁ…。そういう法則も消せるのかしら?

ただ、そうするうちに何故か本来ひきこもりだったアンドリューの方が生活に疑問を感じ始め、不安を訴え自殺を図ったりします。そこで、デイヴが彼の悩みを何とかしようとカウンセリング的なことを始め、その過程で嫌な記憶を消すことに成功し、アンドリューは明るさを取り戻します。

幼児期に両親にかなり虐待されていたらしいアンドリューは、その忌まわしい記憶を消すことで性格自体が変わってきたようで、今までにない能力を発揮などもし始めて、これが本来あるべき姿だったのだな良かったなぁとか思っていると、ちょっと変化が行き過ぎてデイヴに突っかかってくるようになります。そして、小競り合いの末、お互いがお互いの持ち物を消すというケンカに発展し、最終的にはお互いの身体の部位を消しあうというとんでもない事態に陥ります。

このシーンは人体の中身がちょっと見えるので、人によっては不快に感じるかも。変なところであっさりしてないんですよね。私は嫌いじゃない方なんですが、ここで別に見たくないって感じでした。まず、脚を消した時に、その断面が空間の地面にあたる部分に接しているはずなのに、何故か下から見えるところは面白かったけど。あと、下半身を完全に消されたアンドリューが手でカサカサ動いてくるシーンはかの名作 『 フリークス 』 で有名なジョニー・エックの姿を彷彿とさせて愉快でしたが。

で、結局ふたりとも首だけになってしまい、その時やっと落ち着いてお互いを見つめあい、友情を確認して仲直りするんですが、この何も無い真っ白な空間にふたつの生首がびょんびょん跳ね回る様はシュールとしか言いようがないですね。何か水木しげるのまんがを思い出しました。( 首が離れて飛び回る一族=飛頭蛮の話があるんですが、題名失念。)

で、びょんびょん楽しく飛んで終わるんなら、まだしもなんですが、これ最終のオチがあるんですよ。それから10年後、彼らは首だけでヒゲも髪も伸びきって老人みたいになってて、実際にも弱ってる感じで仲良く何もない空間に並んでいる。すると、妙な音が。 「 何の音だ? 」「 え? 」 「 うわぁぁぁ~!! 」と驚愕するふたりの顔と声で暗転するので、実状は明らかではないですが、音からするとバッファローの大群みたいなのが来たのではないかと思われます。カナダ映画だから騎馬警官かもしれないけど(笑)

私のこの映画の評価が低めなのは、微妙に変なところが色々あるせいかも。奇妙な生活に移ってからはいいけど、その前の現実生活の不自然さはどうも気になるんですよね。

会社で嫌われてるらしいデイブの椅子が、出社したら天井に縛り付けてあったり、デイブのパスワードを借りて横領した女が、その事実をあっさり白状した上に物凄く平然かつ冷然としてて、デイブも全くそれらを責めなかったり。アンドリューを陥れる少女も変だし、その母親の対応も変だ。役所の対応は言うまでも無し。微妙に歪んだ世界を描いているということなのかなと思うけど、こういう不自然さはダメなんですよねぇ…(-"-;)

(3月末鑑賞分)